2)ヤマトタケルの熊襲征伐
邪馬台国は、狗奴国と常に敵対関係にあったが、ついに5世紀の初め頃、史書から消える。その後は分からないが、おそらく、敵対関係にあった狗奴国の勢力下になったことが、神武東征の話から想定できる。繰り返し述べていることであるが、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は襲國(そのくに)に天下って長(おさ)となった。襲國は熊襲国のことである。瓊瓊杵尊の曾孫(ひまご)である神倭伊波礼毘古命(かむいやまといわれびこ)が邪馬台国をはじめとする国々を制し、さらに東征して畿内も制圧し、初代の神武天皇となり大和王権の礎(いしずえ)を築いた。したがって、初期の大和王国は熊襲系の王朝である。これが、これまでの筆者の主張である。では、熊襲征伐をしたヤマトタケルとは一体、誰なのか、何者なのかである。
ヤマトタケルは、ヤマトタケルノミコト、漢字では、日本武尊とか倭建命である。ヤマトタケルは景行天皇の息子とされている。熊襲征伐は、この景行天皇の時にも行われ、ヤマトタケルの子である第14代の仲哀天皇やその后の神功皇后の時代にも行われているので、親子孫の三代にわたって熊襲征伐が行われたことになり、熊襲国がいかに強大な国であって、大和政権を脅かしていた勢力であったかが分かる。
景行天皇は第12代天皇とされるが、実在したのかどうか定かではない。実在ならば、その在位期間は、初代神武天皇の紀元前660年説を基にすれば、第12代の景行天皇の即位は紀元(AD)70年頃であろう。なぜなら、80年頃に熊襲征伐のための征西(西方国の征伐に向かうこと)とあるからである。80歳を越しての即位との説もあり、そうであるなら熊襲征伐の頃は90歳を越していたことになり、これも信じがたい。実在したとしたら、時代的には4世紀頃の天皇のはずである。
ヤマトタケルは景行天皇の子であるならば、時代はもっと遅くなり、熊襲征伐は300年頃となる。この時期は、邪馬台国は存続していて狗奴国(襲国)との抗争を繰り返していた。一方、拙論(せつろん)では、神武軍が東征していた頃になる。そんな時期、ヤマトタケルは、九州のどんな勢力を討とうとしていたのか、邪馬台国なのか、狗奴国なのか、それとも襲の国から東征に向かった神武勢力であろうか。先に述べたように、磐余彦(いわれびこ・後の神武天皇)は襲の国の瓊瓊杵尊の曾孫、畿内を統一した大和国の初代天皇、そんな人が祖先国の熊襲を成敗するというのは理解できない。
また、不可解な記述としては「タケル」の名を奉じたというくだりである。ヤマトタケルの元の名は小碓尊(おうすのみこと)という。小碓尊が酒宴の席で女装して熊襲の首領、古事記でいう熊曽建(くまそたける)や日本書紀でいう川上梟帥(かわかみのたける)を討ったとき、健(梟帥)は小碓尊の武勇を称え、日本武尊(やまとたけるのみこと)の名を名乗るよう進言したとある。この故事は、国譲りの話のように、敵に対する恩讐(おんしゅう)もなく、何とも平和的過ぎる話である。そしてまた、三代にわたって成敗を試みてきた逆賊首領の名を名乗るというのも解せない話である。
もう一つ、海彦山彦の神話がある。この話は兄弟の釣り針をめぐる争いと服従の話である。山彦は神武天皇の祖父とされ、隼人族の祖となった兄の海彦を服従させたという。隼人は熊襲であり、神武の祖先は襲の国を治めた瓊瓊杵尊である。神話のねらいは、天津神が逆賊の隼人(熊襲)族を服従させた自慢話になっているが、先ほど述べたように、どうも辻褄(つじつま)が合わない。
このように、ヤマトタケルや景行天皇の熊襲征伐の神話は、どこもおかしく納得のいかない箇所ばかりである。熊襲征伐のあと、ヤマトタケルは東方の蝦夷征討(えみしせいとう)と呼ばれている逆賊征伐に向かう。この話も弥生時代のことではなく、古墳時代以降の史実を構想したものである。この蝦夷征討は7~8世紀の史実に沿ったところもあるので理解できるが、熊襲征伐はよく分からない話である。どうやら、この話は作り話で、ずっと後、6世紀の九州で起こった「磐井の乱」を構想したもので、天皇の威厳と功績を伝承したものではないかと考えられる。この「磐井の乱」というのは、今の福岡県東部、現在の八女市あたり筑紫磐井(つくしのいわい)という豪族が朝鮮半島への派兵の是非をめぐって、第26代継体天皇の大和政権と争い、成敗された事件である。
今も、八女市の岩戸山古墳には、埴輪と同じように、殉葬(じゅんそう)した石人石馬(せじんせきば)が置かれている。
この反乱の背景には、朝鮮半島南部の利権をめぐる大和王権と朝鮮半島の新羅(しらぎ)という国と親密な関係にあった九州豪族との主導権争いであった。この史実は、皇祖系ではない渡来系の部族が倭国統治に深く関わっていたことを物語る。「謎の4世紀」、「欠史八代の天皇」、「倭の五王」といった重要事項が記紀にも詳述されていないということは、この頃の政治勢力が大陸からの渡来系に支配されていたとの説を裏付けることになる。
3)銅鐸文化王国の突然消滅と国譲り神話
鳥取県米子市に、山岳信仰の山として知られる大山(だいせん、1729m)がある。この山の北麓に吉野ケ里遺跡よりも三倍ほど広い妻木晩田(むきばんだ)という遺跡がある。ここには、三世紀後半に突然消滅した国があったことが知られている。本項は、銅鐸(どうたく)文化を有していた王国が一瞬にして消滅した話であるが、この話は神話にもなく、古事記や日本書紀(記紀)にも記載されていない摩訶不思議な史実である。
この銅鐸の出土地が図35である。銅鐸とはどのようなものなのか、それは、同図に挿入したように、一見、釣鐘(梵鐘)を伏せたような形をしていて、梵鐘のように叩けば音が出る。鐘なのか、祭器だったのか使途の詳細は未だ不明である。大きさは、小さいもので10㎝位から大きいものは1mを越すものまである。材料は銅に錫や鉛を含有させた銅合金(青銅)である。 さて、この銅鐸の出土地、つまり、大切に信奉されてきた民族が居住していた銅鐸文化圏は、畿内を中心にして、東は静岡県、西は島根県や和歌山県、それに四国の高知県である。山口県や九州には及んでいない。このことから、九州勢力とは異なる民族がこれらの地を占めていたことが分かる。この地域の人がどんな民族で、どこからの渡来人なのだろうか。このことに関わりそうな記事が2006年の朝日新聞にある。現在の中国無錫市近傍で、紀元前470年頃の墳墓から磁器製の銅鐸が出土し、弥生時代の日本の銅鐸は、このあたりから伝わった可能性があるという報道である。詳細は不明であるが、とにかく、九州の細形銅剣国家ではない民族がいたことだけは間違いない。
図35. 銅鐸の出土地 |
それが、弥生時代の中後期、銅鐸が突如として土中に埋められてしまったのである。このことは銅鐸を信奉していた王国が戦いに敗れたことによって侵入勢力の価値観や文化が持ち込まれ、それまでの信仰行事や習俗も途絶えたことを意味する。弥生時代の中後期と言えば、邪馬台国が終焉し、神武東征によって畿内が制圧された時期である。この銅鐸文化王国をせん滅し、新たな価値観を持ち込んだ勢力こそ瓊瓊杵尊のひ孫であるイワレビコ、後の神武天皇の勢力集団であったと考えられる。
この時期の出来ごとにぴったりの神話がある。大国主命(おおくにぬしのみこと)の国譲り神話である。国譲り神話は、昔からその土地にいた土着の神(国津神)である大国主命が天降ってきた渡来系の神(天津神)に国を平和的に譲ったという神話である。この神話の構想は、畿内を制圧し、銅鐸国家であった先住民の国を占領して支配下におさめたというものである。大国主命の国譲りの条件は立派な宮殿(現在の出雲大社)を築造して貰うことであった。しかし、戦勝者の天津神側からも代わりの要求があったはずである。記紀にはないが、それは銅鐸崇拝の禁止と廃棄であろう。それまで王国の象徴であり、信奉対象であった銅鐸を土中に埋めて信奉習俗を抹消せよ、という要求に大国主命は従い、人里はなれた山中へ埋納・廃棄したと考えられる。
国譲り神話は、国津神(天孫降臨以前からいた土着の神・豪族)と天津神(天孫降臨の神・天降りの渡来神)の間の平和的な国譲渡の話になっているが、実際は生臭い国盗り合戦であったはずである。もともと、出雲の国に天降ったのはアマテラスの弟である須佐之男命(すさのおのみこと)である。その子か何代後の孫が大国主命とされている。身内であれば、国譲りの話も容易だったはずである。やはり、大国主命は土着の支配者・国津神であったことから国譲りが簡単ではなく、抵抗したが、結局、武力制圧されたと考えられる。
岡山県などには「桃太郎伝説」がある。桃太郎は大和政権の役人であり、お供の猿と犬と雉は手下の役人、征伐された鬼は政権に従わぬ「まつろわぬ民」であった。神話に仕立てたてのが、須佐之男命の「ヤマタノオロチ退治」である。反抗勢力を八岐大蛇(やまたのおろち)に見立て、八つの頭は八つの国か豪族の数である。それらを宴と称して集結させ、酒を飲ませ、酔いつぶれたところを刺殺した。この方法は、ヤマトタケルの熊襲征伐場面と同じである。ただ、違うのは、大蛇の尻尾から剣が出てきた。草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。
この剣は、銅剣とされているが、本当は大陸から鉄器が持ち込まれた時代の鉄剣ではなかったのかと考えられる。鉄剣は、それまでの銅剣よりも強靭で優れた武器であった。鉄の加工技術を持つ職人がいて、鉄の材料(砂鉄)を産する国であれば、権力者は一番手に入れたかったはずである。そんな国が出雲国(今の島根県東部)から吉備国(今の岡山県)であり、それらの地域を征服したという神話である。須佐之男命はアマテラスの弟であり、ヤマトタケルは、ずっと後の景行天皇の息子であるから、殺傷方法をタケルが真似したのであれば、天孫系の伝統殺法かも知れない。
国津族は縄文人であり、旧石器時代からの先住人であるが、弥生時代になると、大陸から優れた武器や農耕技術を携えた異邦人が渡来してきて、先住民を支配下におくようになり、抗争も激化していった。邪馬台国と狗奴国の抗争も渡来の天津族と土着の国津族の戦いであったとも言えるが、弥生時代遺跡の分布をみると、そうとも言いきれない面がある。
つまり、九州における弥生時代の集積遺跡地は、九州北部の佐賀平野や筑紫平野であり、九州南部では鹿児島湾の肝属や志布志湾を中心とした大隅地方である。これら南北遺跡の集団が同じ地域から来た同一民族とは考えられない。
それは、日本列島への渡来移住が南方ルート、東シナルート、朝鮮ルート及び北方ルートであったことが指摘されているからである。九州では北方ルートは考えられないが、伊万里や唐津湾にたどり着いたのは東シナルートや朝鮮ルートの移住者であり、南方からの渡来人は大隅半島や鹿児島湾に上陸したであろうことは無理のない想定である。この傍証の一つとして、九州沖縄地方では「原」を「はる」とか「ばる」と呼ぶ話(第16~17話)のところで述べる。
古事記や日本書紀(記紀)には、国譲りのことは書いてあっても、特に古事記には、倭の五王のことや銅鐸及び銅鐸を信奉する国家があったこと、巨大古墳のことは一切述べられていない。邪馬台国やその頃の中国大陸との君臣・朝見朝貢関係などの交流のことについても一切書かれていない。「倭の五王」というのは、中国の史書に書かれているもので、5世紀における倭(日本)の王(天皇)のことである。五王は中国と深い交流関係にあったことが述べられているが、記紀にはない。
古事記は天皇家による統治の正当性を目的として712年に編纂されたわが国内向けの歴史書であるが、初代の神武天皇のことは詳しいが、次の第2代の綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第8代の開化天皇(かいかてんのう)まで8代の天皇のことについては記述がない。いわゆる「欠史八代の天皇」のことである。在位や実在の真偽が不明のためなのか、大和朝廷とは関係のない血筋の天皇であるためなのか、いずれにしても古事記編纂時代の朝廷にとって記録にとどめ置きたくない天皇であったからではないかと推測できる。